かげをたどる
前回は、ふいに訪れるとおり雨の心のありようについて考えてみました。一年を通せば雨の降らない日の方が多いせいか、雨は厄介なものと捉えがちです。
それでも雨は避けられないのですから、雨の雰囲気を味わうくらいの心の余裕を持てたらいい―― そう思います。
気づけば夏至も過ぎ、小暑から大暑に向かうころ。まさに夏の盛りです。
照りつける日差しを避けながら歩く日々。どこかに日陰はないかと、ついきょろきょろしてしまうのも、この季節ならではのことかもしれません。
今回は夏場のささやかなオアシスでもある「かげ」について考えてみたいと思います。
二つの「かげ」

“かげ”を漢字であらわす代表的なものに、「陰」と「影」があります。 辞書を引くと、
「陰」には、ひかげ、日のあたらないところ、暗い、しめり、ひそかに、移りゆくひかげ、転じて、時間、といった意味があります。 一方の「影」は、光線が物体に妨げられた暗い部分。また、そのために地面などに映った黒い像。さらに、見えない部分、姿、形、おもかげ、とあります。 (いずれも大修館書店「漢語林」より要約)
ふだん何気なく使い分けていますが、あらためて調べてみると、それぞれの文字が持つ意味に納得します。「陰」は日のあたらない“場所”を、「影」は光が映し出した“すがた”を指しているようです。
おもしろいのは、どちらも光そのものではなく、光が届かないところから、内面的なものを表していることです。
私たちは、明るく照らされたものだけでなく、照らされずに残ったところにも、何かを感じ取っているのかもしれません。
日陰へ寄る

この時期、街を歩いていると、ふと気になる光景に出くわします。歩いている人が道の片方に寄っているのです。
日傘をさしている人、帽子をかぶっている人、眩しそうにしている人。 前を歩いている人もこちらに向かってくる人も、なぜか同じ側を歩いている。
理由は一目瞭然、そこに日陰があるからです。この暑さ、すこしでも涼しいところを求めたくなるのも、自然なことです。
さらに観察すると、日陰の輪郭にあわせて歩いている人もちらほら。ビル、一軒家、電信柱。大きかったり、尖っていたり、細かったりと、形はさまざま。それをたどるようにジグザグに歩く様子は、すこしユーモラスです。
こうして眺めていると、日陰といっても、同じ形のものはひとつもないことに気づきます。少し考えれば当たり前のことですが、地面に落ちた建物の影をあらためて見ると、なんだか新鮮な気持ちになります。
うつろう日陰

日陰を歩く人でいっぱいだった日とは別の日に、同じ道を通ると、なんとみんな、あの日とは反対側を歩いていました。
それもそのはず。あの日は午後、この日は午前。太陽の位置が反対にまわり、あの日に照らされていた建物が、今日は日陰をつくる側になっていたのです。
そういえば、太陽の角度によって、日陰の形も大きく変わります。お昼ごろは短く、夕方になるにつれ、影は長く伸びていく。建物が違えば形も異なり、時間が移れば、まっすぐ伸びたり、斜めに歪んだり。
日陰は、いつも同じ場所に、同じ形であるわけではない。ひとつとして留まることなく、刻々と移ろっていく。そう思って見ると、足もとの影が、急に生きもののように感じられてきます。
暗闇に浮かぶ輪郭

2011年の東日本大震災のあと、関東各地で実施された計画停電を覚えている方も多いのではないでしょうか。あれはとても不思議な景色でした。
隣の地域は煌々と明るいのに、自分のいる地域は真っ暗。道を挟んで向こう側の窓は黄色く灯り、こちら側は、建物の輪郭さえも曖昧なほどに、暗闇が広がっている。
方向感覚を失いそうになりながら少し遠くに目をやると、まわりよりもいっそう暗い、大きな何かがあることに気づきます。目を凝らしても、わかるのは全体の輪郭だけ。けれど、昼間の記憶を手繰り寄せながら頭の中で像を結んでいくと、それが大きな団地だと、ようやく思い当たる。
そんな経験をしたことがあります。
曇り空で、月明かりもない。それでも暗闇には濃淡があり、その濃淡によって、まわりの気配に気づく。たしかに実体はあるのに、はっきりとは見えない。なにか面影だけを見ているような、不思議な感覚でした。
陰影という奥行き

「陰」と「影」。これを合わせると「陰影」という言葉になります。 辞書には、
「うすぐらいかげ。くもり。転じて、平板でなく深みのあること。ニュアンス」(岩波書店「広辞苑」)とあります。言い換えれば、少しかげがあるくらいのほうが、ものごとが魅力的に映るということでしょうか。
「陰影」は「陰翳」とも書きます。その字で思い出されるのが、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。明るく照らされた美しさだけではなく、かげや暗がり、時間や自然が生み出す微妙な光の移ろいに美を見出す。
照らされたところより、照らされずに残ったところ。そこにこそ、ものの奥行きが宿る。そんな見方を教えてくれます。
かげから想像する

国宝、長谷川等伯の「松林図屏風」も、そんなことを思わせる作品です。墨の濃淡だけで描かれた簡素な作品ですが、多くの人を惹きつけます。
出身地の能登の風景とも心象風景とも言われていますが、印象的なのは、墨の濃淡によって浮かび上がる松と、それ以上に迫ってくる余白です。描かれているのは松そのものなのか、それとも霧の向こうに立ちのぼる松の影なのか。そんなふうにも見えてきます。
もし影を描いているのだとすれば、それは実体ではなく、実体が残した気配を描いていると言えるのかもしれません。
影とは、光に照らされた実体がつくり出す虚。実があって、はじめて虚が生まれる。その関係は、まさに虚実そのものです。
では、虚とは、中身のない、意味のないものなのでしょうか。
——いいえ、そうとも言いきれません。現実の世界では、私たちは影から実体を読み取ることができます。本当はそこに物として何かがあるわけではないのに、その像から、何かに気づくことができる。
なにげないことですが、そこにこそ、おもしろみがあるように思います。はじめから実体を見てしまえば、それまでのこと。けれど影であれば、その主である実体を想像したり、像の移ろいそのものを楽しんだりすることができます。
そういえば、子どものころ、手でキツネや鳥をつくって遊びました。あの手影絵も、影だけを見ていたからこそ、想像をふくらませることができたのかもしれません。
かげを眺める

形だけの存在である、影。
実体のないその像を眺めることが、想像をひらき、見えているものの奥にあるものへと、そっと目を向けさせてくれる。
暑い日には日陰に身を寄せ、夜には闇に輪郭を読み、墨絵の前で松の影に思いをめぐらせる。 そのどれもが、何もないところから何かを受け取る、ささやかな営みです。
きょうも足もとには、いつもの影が伸びています。その移ろいに、ふと目を留めてみる。それだけのことが、暮らしにちょっとした余白を、つくってくれるのかもしれません。

文:清水洋平(清水屋商店)
株式会社良品計画にて「MUJIBOOKS」プロジェクトを立ち上げ、本を介した売場づくりや出版レーベル「MUJIBOOKS」による『人と物』シリーズの刊行、「つながる絵本」「本の回収」などの仕組みづくりに携わる。現在は『無印良品 くらしのラジオ』のプロデュースおよびパーソナリティを務めるほか、書籍、音声、展示、イベントなどを通して、ものごとの背景や価値を伝える企画・プロデュースを行っている。2025年には日本香堂監修の書籍『日本の香』(誠文堂新光社)の企画・進行・PRを担当。
